[ 物語 ] 2007/07/09(月)
「小説 受験の神様 家庭教師が書いた謎の家庭教師と中学受験母と子の物語」
第一章 授業はわかるのに点が取れない
東京渋谷から横浜を走る東急東横線武蔵小杉駅の近く、小学六年生のひとり息子をかかえるふつうの主婦がいた。名前をかおるという。
いきなり話がそれるが、彼女は自分の「かおる」という名前が好きではない。どうして両親はこんな名をつけたのだ、と思うこともあった。少々乱暴だが、以前からいっそのこと名前をちがうものにかえてしまいたいとさえ思っていた。
いや、これは正確な表現ではない。子供の頃は結構気に入っていた。
ではなぜ嫌いになったか。それは、結婚を期に自分のみよじが夫のみよじ「みたらい」に変わったからである。
「御手洗」とかいて「みたらい」と読む。しかしこれを「みたらい」と読める者は少ない。多くの人は間違ってつい「おてあらい」と読んでしまう。相手に悪気(わるぎ)はないのはわかっていることなのだが、かおるはそれがとてもいやだった。
たまたまだんなの姓が「御手洗(みたらい)」だっただけである。だが、それに「かおる」という名前がつくと、まるでにおいのついた便器みたいでたまらなく不快だった。病院や銀行などで「おてあらいかおる」と呼ばれて周囲からもれた笑いに、肩身の狭い思いをしたことも数知れない。今後二度とそのような呼ばれかたはされないよう、最近では氏名のふりがな欄にひらがな・カタカナ、さらにローマ字まで書いて奮闘努力している。
結婚して三年後、男の子が生まれた。待望の第一子に、子供にはこのような生き恥はかかせたくないという強い思いから、命名(めいめい)にはかなり神経をつかった。ただでさえみよじがトイレと連想されやすいだけに、下手な名前を付けて一生人からからかわれてしまうようではいけない。万が一「御手洗(みたらい)」を「おてあらい」と間違えて呼ばれてもいいように、トイレと結びつきそうな名前はことごとく候補からはずしたのである。
したがって、「総司(そうじ)」「清(きよし)」とかはもちろん「大作(だいさく)」とかいう名前も一発で削除された。
そうして慎重に慎重を重ねた結果、世をやすらかなものにしてほしいという願いをこめて、その男の子に「靖世」という名をつけた。これなら「おてあらいやすよ」と誤って呼ばれても、それほどおかしくはない。「おてあらいそうじ」などからみればだいぶ増しだ。
かおるのその計らいは図に当たった。靖世は小柄で気も弱くいじめる標的には格好の少年であったにもかかわらず、今日までトイレと名前を結び付けてからかわれたりいじめられたりということは一度たりとてなかったのだ。その意味で、かおるの思(おも)わくは成功した。
ところが、彼女がにんまりとするのはまだ早かった。学校でも塾でも靖世の周囲の者はそのような呼び方をしない代わりに、あたかも自分の裸をいきなりのぞかれてあわてて手で前を隠すようなポーズをとりながら、抑揚をつけフルネームで靖世を呼んだ。
「見たらイヤッスよ!」
御手洗靖世はその後の人生を、誰からもこうよばれることになってしまったのである。
こうなると、そういう母の名付けの配慮などどこかに飛んでいってしまう。
「なんでこんな名前にしたんだああー」とわめく靖世に、
「人間名前じゃないのよ。中身が大切なのよ」と、 あれほど名前にこだわった母かおるは手のひらを返したように言いわけし、説き伏せるしかないのであった。
と、まあ、ここまでは、仲がよいのか悪いのかよくわからない、ごくふつうの親子である。